なぜ人は、自分の心の闇から目を背けるのか?

9月1日の防災の日は、1923年(大正12年)9月1日に「関東大震災」が発生したことに由来しています。そして9月のもう一つの重大な節目が、1945年9月2日に日本は降伏文書に調印し、第2次世界大戦が正式に終結した日でもあります。

なぜ人は、自分の心の闇から目を背けるのか?

戦争は、私たちに「見たくもない事実」を突きつけます。それは、ごく普通の人間が、極限状況下でいかに恐ろしい存在に変容してしまうかという、否定しようのない現実です。

平和な時代には決して顔を出さないはずの凶暴性が、ひとたび状況が変われば、自分の中からも現れてしまうかもしれない。この事実を直視することは、人間が持つ「プラスの側面」を育むためにも不可欠なはずです。

それなのに、なぜ私たちは、その現実から徹底的に目を背けようとしてしまうのでしょうか?


自己防衛本能という盾

私たちは、自分の精神的な安定を守るために、無意識のうちに自己防衛本能を働かせています。戦争がもたらす事実は、あまりにも強烈で、私たちの根底にある「自分は善良な人間だ」という自己認識を揺るがしかねません。

この矛盾が認知的不協和を引き起こします。「自分は平和を愛する人間だ」という理想と、「自分も状況によっては誰かを傷つけるかもしれない」という現実がぶつかり合い、心の痛みを生みます。この痛みを和らげるために、私たちは無意識にその事実を否定したり、なかったことにしたりしようとします。

楽観主義という甘い毒

多くの人は「自分にとって不都合なことは起こらないだろう」と考える楽観主義バイアスを持っています。「戦争は遠い国の話」「自分はそんなことをしない」と信じることで、私たちは日々の生活を安心して送ることができます。

このバイアスは、前向きに生きる上ではプラスに作用しますが、同時に、自分自身の内に潜む危険な側面から目をそらさせる原因にもなります。私たちは、自分の本質と向き合うよりも、心地よい幻想の中で生きる道を選びがちです。


集団心理と社会の構造

目を背けるという行為は、個人の心理だけでなく、集団や社会の構造によっても助長されます。

平和な社会では、他者を傷つける可能性のある考えや感情を公にすることはタブーとされています。私たちは同調圧力によって、自分の暗い感情を抑え込み、見ないふりをすることを学びます。

また、社会の教育や文化は、協力や思いやりといった人間の「良い側面」を強調します。これは秩序を保つ上で不可欠ですが、同時に、人間の暗い側面について深く考える機会を奪ってしまうことも事実です。私たちは「人間は本質的に良い存在だ」という信念に固執し、その対極にある事実を遠ざけようとします。

目を背けることの悲劇

合理的に考えれば、自分の持つ凶暴性を認識し、それをコントロールすることは、平和な社会を築くために不可欠です。しかし、人間は常に合理的に行動するわけではありません。

戦争が突きつける事実は、あまりにも強烈で、理性や道徳観を根底から揺るがします。そのため、その事実から目を背けることは、理性的な選択ではないかもしれませんが、精神的なサバイバルのための、ある種の「合理的な」行動なのかもしれません。

しかし、この目を背ける行為こそが、戦争の教訓を風化させ、同じ過ちを繰り返す原因となるのです。自分自身の内なる闇を直視すること。それは、平和な世界を維持するために、私たちが乗り越えなければならない最大の課題なのかもしれません。

自分自身が『悪魔の末裔』かもしれない。。。平和、人権、自由、豊かさ等など。。。その根底を創り出すものは、常に自分自身に対しての「疑い」や「凶暴性」へ向き合うことが、その一歩だと思うのです。。。

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