決して誰とも分かち合えない「自分だけの道」

誰かの光は、私の暗闇を照らさない

私たちは、何かを失ったり、心が軋むような苦しみに直面したりしたとき、本能的に「答え」を求めます。

過去の賢人の言葉。

専門家が証明した、心の仕組み。

先に同じ道を歩んだ誰かの、力強い手記。

それらは宝石のように輝いて見えます。読めば、聞けば、きっとこの苦しみが和らぎ、出口が見つかると信じて。

でも、知っているのです。心の奥底で。

人が人生で学んだことは、他の人には全く役に立たない。

その教訓は、まるで手のひらに乗せた水のように、いざ自分の番が来ると、指の隙間からこぼれ落ちて、跡形もなく消えてしまう。知識として知っていたはずの美しい言葉は、現実の重さの前では、驚くほど無力です。

なぜなら、この悲しみは、私だけの形をしているから。私の内側の、最も柔らかい部分に食い込んでいる棘は、他の誰にも見えない、触れられないものだからです。

踏みしめるまで、わからない道の感触

私は、知識を否定したいわけではありません。ただ、知識が「役に立つ」瞬間は、私たちが思うよりもずっと、遅れてくるのだと思うのです。

喪失や悲しみ、苦しみの経験を、自分で、たったひとりで、よろめきながら乗り越えた時。あるいは、乗り越えられなくとも、ただ向き合い続けた時。

私たちは、ある種の「未完成な、自分だけの落としどころ」を見つけます。それは、違和感を抱えたままであり、完全な「受容」とは呼べないかもしれません。しかし、その歪な形を抱えながらも、どうにかこうにか「活きてゆく」ことを選び取れた時。

その時初めて、知識ではなく、「感触」が生まれます。

ああ、私もあの人も、あの偉大な人も、名前も知らない誰かも、皆、同じように足元が覚束ないまま、自分だけの石ころだらけの道を歩んでいたのだと。辿り着いた場所や、向き合い方は違っていても、この「自分で踏みしめる」過程だけは、誰一人としてショートカットできなかったのだと。

それは、頭で知る「共通の理解」ではなく、皮膚で感じる「儚い共感」です。

傷跡が、初めて触れることのできる場所

渦中にいるとき、他者の励ましは、私たちにとって重荷になることさえあります。それは、その人の痛みを疑っているのではなく、まだ自分の痛みの全てを受け止めきれていないから。

共感は、渦中にいるときに生まれるものではありません。

それは、自分が向き合えた時、自分の傷跡を、そっと自分で撫でられるようになった、その一瞬に、初めて他者の傷跡に、静かに触れることができる感覚として生まれるのだと思います。

それは、「乗り越えた」という誇りではなく、「私も、この脆い心を抱えて生きている」という、互いの拙さへの慰め合いなのかもしれません。

知識や正論では埋められない、この心の隙間。

それを埋めるのは、互いが、それぞれの孤独な道を歩ききった後の、「ああ、あなたも…」という、言葉にならない一瞬の共鳴なのです。

儚さの意味。孤独と絶望が生きること

少しでもよりよく生きたい、幸せになりたい、今よりも希望を抱ける人生を歩みたい。。。と思う気持ちは自然なことです。一方で、それが本当に成就できるものなのか、確信が持てない気持ちが心の奥底にくすぶいていることも事実でしょう。

真に他人の気持ちが分かるとき、それは、同じような体験をし、同じような経験をし、自分も何らかの「教訓」や「知見」「感覚」を得た時に初めて得られるものかもしれません。人として悲しすぎますが、本当は、そういうことではないかと思っているあなたは正しいのかもしれません。

正しさは孤独、どこまでも「儚い(はかない)」のが、私たち人間が生きるということのなのかもしれません。。。

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