日本の高齢化は喫緊の社会課題であり、特に首都・東京都はその特異な人口構造から、介護人材の需給ギャップという深刻な問題を抱えています。一般的に、介護職は「給料が低い」「きつい」「人間関係が難しい」といった旧来のイメージから、離職率が高いと見られがちでした。しかし、この数値を詳細に分析すると、問題の本質は異なる点にあることが明らかになります。

このような背景のもと、東京都は従来の賃金補助や資格取得支援といった枠組みを超え、働く一人ひとりの人生に寄り添う、まったく新しい視点に立った事業を打ち出しました。それが「介護WITH事業」です。本レポートでは、なぜ東京都がこの事業を始めたのか、その創設の経緯から事業の全貌、そして介護業界にもたらすであろう未来の展望について、データに基づきながら深く掘り下げて解説していきます。

なぜ、介護現場に「WITH」が必要なのか？〜危機的な人材不足の背景〜

データが語る東京の介護現場の現実

東京都における介護人材の確保は、全国的に見ても極めて厳しい状況にあります。最新の統計データによると、介護職の有効求人倍率は7.39倍に達しており、これは全国で最も高い水準です。この事実は、介護サービスを提供する事業所が10件の求人を出しても、応募者が1人しかいないという、需要と供給の極端な不均衡を示しています。特に都心部の23区に限っては、この倍率が10倍にまで跳ね上がるとされており、介護サービスの提供そのものが困難になる危機的な状況が浮き彫りになっています。

この状況は、一見すると矛盾しているように映ります。東京都の高齢化率は全国平均よりは低いからです。しかし、この数値の背景にある構造を分析すると、より深い問題が見えてきます。東京都は全国で最も人口が密集しており、高齢者の絶対数も突出して多いのです。また、それに伴い、要介護・要支援認定者数も全国トップレベルにあります。つまり、介護人材の不足は、単に高齢者の割合の問題ではなく、「圧倒的な介護需要の絶対量」と「労働力が他の産業に流出する構造的な問題」の二重苦によって引き起こされていると言えます。この構造的な問題を解決するには、単に給料を上げるだけでは不十分であり、介護という仕事そのものの魅力を根本から変革するような、抜本的なアプローチが不可欠なのです。

離職率の真実：問題は「辞める」ことだけではない

もう一つの重要なデータとして、介護職の離職率が挙げられます。世間では「介護職は離職率が高い」というイメージが根強く存在しますが、実態は少し異なります。令和3年度のデータでは、介護職員の離職率は14.3%と、全産業平均の13.9%とほぼ同水準にまで低下しています。

では、なぜ離職率が平均並みであるにもかかわらず、これほどまでに求人倍率が高止まりしているのでしょうか。これは、「辞めていく人の数」と「新しく入ってくる人の数」のバランスに問題があることを示唆しています。離職率が全国平均並みだとしても、圧倒的に多くの労働力が必要な東京の市場では、新規の参入者が需要に追いついていないのです。この事実は、人材確保戦略の重点が、単なる「定着支援」だけでなく、介護業界のイメージを刷新し、多様な層から新規の労働力を呼び込む「イメージアップ」にシフトする必要があることを強く物語っています。

創設の経緯と哲学：介護人材確保のパラダイムシフト

介護職員の離職理由に関する調査は、この事業の哲学を読み解く上で示唆に富んでいます。「上司の思いやりのない言動」「同僚のきつい言動」といった人間関係や職場環境が、給与・待遇の次に多い離職理由として挙げられています。このデータは、介護という仕事が持つ責任感や、利用者と一対一で向き合う閉鎖的な環境が、ストレスを増幅させやすい構造にあることを示しています。

こうした構造的な課題に対し、東京都は単なる経済的インセンティブだけでなく、より根本的な働き方の改革を目指しました。東京都の介護人材確保対策事業の全体像を見ると、「介護WITHプロジェクト」は「イメージアップ」という戦略的項目に位置づけられています。これは、この事業の目的が、単に副業を認めるという労働法上の問題解決に留まらず、介護という仕事の社会的な価値や魅力を高める、より大きな戦略の一環であることを示唆しています。この政策の根底には、「介護職は、自身の人生や夢を犠牲にして行う仕事ではない」という、働く一人ひとりのアイデンティティやウェルビーイングを尊重する新しい哲学が流れているのです。

夢を諦めない働き方へ。『介護WITH』事業の全貌

事業の核心：【介護】＋【個人の活動】

「介護WITH事業」の最も革新的な点は、そのコンセプトにあります。この事業は、介護施設が職員の「夢や趣味、副業と介護の仕事を両立できる職場環境」を整備することを支援するものです。東京都は、単に賃金補助や研修支援を行うのではなく、職員が介護業務以外の「個人の活動」を継続できるよう、組織的に後押しする事業所を「介護WITH事業所」として選定します。

具体的には、「介護×スポーツ」「介護×芸能」「介護×クリエイティブ」といった、一見すると介護とは全く異なる分野との掛け合わせを推奨しています。これは、職員の個人的なアイデンティティを尊重し、仕事と個人の人生が互いに補完し合う関係を築くことを目指しています。このような取り組みは、職員のエンゲージメント（仕事への自発的な貢献意欲）を飛躍的に高める効果が期待できます。仕事を通じて個人の成長を実感し、職場以外のコミュニティを持つことで、精神的な余裕が生まれ、結果として離職率の低下や生産性の向上につながるという、先進的な人的資本経営の考え方に基づいています。

応募要件と支援内容の詳細

この画期的な事業に選定された事業所には、1事業所あたり100万円の奨励金が支給されます。この奨励金は、柔軟な勤務制度の導入や、副業・兼業を支援するための研修費用など、新しい働き方を整備するために必要な初期投資をサポートすることを目的としています。

対象となる施設・サービス事業所の範囲は非常に広範です。特別養護老人ホーム、介護老人保健施設、介護医療院といった入所系の施設に加え、指定定期巡回・随時対応型訪問介護看護や看護小規模多機能型居宅介護など、多様なサービス形態が含まれます。ただし、訪問介護や訪問リハビリテーションなど、一部の訪問系サービスは対象外となる場合があることに注意が必要です。

令和7年度は、前年度の9事業者からさらに拡大し、10事業者の選定が予定されています。応募を検討する事業者は、東京都福祉保健局のウェブサイトで公開されている募集要項や応募書類（Excelファイル）を確認し、申請書類（例：予算書、計画書、雇用等証明書など）を提出する必要があります。

新たな働き方が生み出す成果と展望

これまでの実施結果と評価

「介護WITH事業」は、まだその歴史が浅い新しい試みです。令和6年度は9事業所が選定され、令和7年度には10事業所の選定が予定されています。現時点で、事業が具体的に介護職員の採用数や離職率にどのような影響を与えたかを示す統計データは公開されていませんが、これは事業がまだ初期段階であり、まずは「成功モデル」を創出し、そのノウハウを業界全体に波及させることに重点が置かれているためだと考えられます。

この事業の真価は、単なる数値の増減ではなく、「介護と個人の活動を両立させる」という新しい価値観が、どれだけ社会に浸透し、業界全体のイメージを変革できるかにあります。今後、選定された事業所での取り組みが、報告会やメディアを通じて広く共有されることで、介護業界への関心が新たな層に広がり、潜在的な労働力の掘り起こしにつながることが期待されます。

「WITH」のコンセプトがもたらす多角的な効果

この事業がもたらす効果は、単なる人材確保に留まりません。多角的な視点からその潜在的な効果を分析します。

1. 離職防止とエンゲージメント向上: 離職理由のトップに「人間関係」が挙げられているように、介護現場の閉鎖的な環境は職員の精神的なストレスを増幅させがちです。副業や趣味を推奨する柔軟な働き方は、職員に職場とは別のコミュニティやアイデンティティを提供し、精神的な「逃げ場」を確保します。これにより、ストレスが軽減され、職員のウェルビーイングが向上し、結果として離職防止につながる可能性を秘めています。
2. 新規人材の呼び込みとイメージ刷新: 「介護の仕事はクリエイティブな仕事である」といった新しいプロモーションが可能となります。異業種からの転職者や、子育てや介護を経験しながらスキルアップを目指す人々など、これまで介護業界を視野に入れていなかった多様な人材が、自身のキャリアや人生を豊かにするための選択肢として介護職を捉えるようになります。

介護業界のDXと「WITH」の親和性

「介護WITH事業」は、東京都が推進する他の介護人材確保施策と密接に連携しています。特に注目すべきは、次世代介護機器の導入支援や介護現場のDX推進事業です。介護ロボットや見守りセンサー、介護ソフトの導入は、介護職員の身体的・精神的な負担を軽減し、介護業務を効率化します。この効率化によって「生み出された時間」こそが、職員が趣味や副業といった「WITH」活動に充てることのできる貴重なリソースとなるのです。

つまり、DXは「介護の仕事」を楽に、そして「WITH」は「介護職の人生」を豊かにするという、両輪で介護業界の働き方改革を推進していると言えます。これら二つの施策は、単独では実現が難しい相乗効果を生み出し、介護業界全体の持続可能性を高めるための戦略的なエコシステムを形成しているのです。

未来への提言〜「WITH」が示す介護の新しいカタチ

事業所へのメッセージ：多様性を力に変える経営モデルへ

「介護WITH事業」への参加は、単に奨励金を得るためのものではありません。それは、経営者が職員の多様な生き方を尊重し、柔軟な働き方を導入することで、人材確保における競争優位性を築くための絶好の機会です。職員のエンゲージメント向上、組織文化の変革、そして新しい人材の呼び込みは、事業所の持続的な成長に不可欠な要素です。

介護職を目指す方へ：人生を豊かにするキャリアとしての介護

「介護WITH事業」は、介護という仕事が、あなたの人生を犠牲にするものではなく、むしろ豊かにする可能性を秘めているという強力なメッセージを発信しています。この仕事は、人とのコミュニケーション能力、課題解決能力、多職種連携能力など、様々なスキルを磨く場であり、それが他のキャリアにも活かされます。介護の仕事を通じて、自身の興味や才能をさらに開花させる、そんな新しいキャリアの選択肢が、いま東京から生まれつつあるのです。

まとめ：社会全体で育む「三方よし」の介護

「介護WITH事業」が目指すのは、働く職員の生活の質の向上、介護を受ける利用者への質の高いケアの提供、そして地域社会全体の活性化という「三方よし」のモデルです。この事業は、介護業界のイメージを根本から刷新し、働く人も、介護を受ける人も、そして社会全体も豊かになる、持続可能な社会基盤を構築するための重要な一歩であると言えるでしょう。今後、この新しい働き方が全国に広がり、日本の介護の未来を拓くことを期待します。