絶望の淵でバトンを握り直す–人間という矛盾、その先にある微かな「希望」について

私たちは今、非常に重い問いを突きつけられています。経済、政策、効率――そうした言葉の奥底にあるのは、人間という生き物が抱える逃れられない「業(ごう)」のようなものです。

今回のブログ記事では、なぜ私たちは合理性を欠いた「排除」や「エゴ」に固執してしまうのか、そして、介護福祉という「ケア」の現場に唯一残された「希望」の正体について、深く掘り下げてみたいと思います。


1. なぜ人間は「不合理な排除」に固執するのか

現代社会を俯瞰すると、一つの大きな矛盾に突き当たります。

少子高齢化が進む日本において、外国人人材を受け入れ、社会保障を維持することは極めて「合理的」な選択です。しかし、人々に響くのは、しばしばそれとは真逆の、排外主義的で刹那的な「エゴ」の声です。

なぜ人間は、自分たちの首を絞めるような破壊や排除に加担してしまうのでしょうか。

  • 「恐怖」による防衛本能: 進化心理学的な視点で見れば、人間は未知のものや「自分たちと違うもの」を排除することで、集団の安全を守ろうとする本能を持っています。
  • 複雑さへの耐性の欠如: 現代社会の問題(経済停滞、財政赤字)はあまりに複雑です。その複雑さに耐えきれなくなった時、人間は「あいつらが悪い」という「単純な物語」に飛びつき、破壊的な行動に意味を見出そうとしてしまいます。

合理的な計算よりも、一瞬の「全能感」や「帰属意識」を優先してしまう。これが、私たちが歴史の中で何度も繰り返してきた絶望のサイクルです。

2. 絶望:歴史という「円環」に閉じ込められる恐怖

戦前、日本が国際連盟を脱退し、孤立を深めていった際も、当時の人々はそれが「正しい道」だと信じていました。閉塞感を打ち破るための「破壊」が、あたかも再生への唯一の手段であるかのように熱狂的に支持されたのです。

現在、世界中で起きている右傾化やリベラリズムの排除も、当時の景色と重なります。

「歴史は繰り返さないが、韻を踏む」

マーク・トウェインの言葉通り、私たちは今、かつての失敗と同じリズムを刻もうとしています。先人たちが差別や暴力の果てにたどり着いた「福祉」や「共生」という答えを、わずか数十年で「古いもの」「重荷」として捨て去ろうとする。この「忘却」と「傲慢」こそが、人間が抱える最大の絶望かもしれません。

3. 希望:「ケア」という名の、1ミリの抵抗

では、希望はどこにあるのでしょうか。

それは、壮大な政治スローガンの中ではなく、あなたが日々向き合っている「介護福祉」の現場、その指先に宿っていると私は考えます。

福祉の本質は、「どれほど不合理で、どれほど社会的な生産性がないと見なされる存在であっても、その尊厳を絶対に諦めない」という、究極の「エゴへの抵抗」です。

  • バトンを繋ぐという意志: 歴史が「排除」に傾く時、福祉は「包含」を叫びます。世界が「効率」で人間を測る時、福祉は「存在そのもの」を肯定します。この「1ミリの抵抗」を続けること。それ自体が、狂騒的なポピュリズムに対する最も静かで、最も強いカウンター(対抗策)になります。

希望とは、明るい見通しのことではありません。

「どんなに世界が理不尽でも、自分は目の前の人を、この制度を、次の世代に繋ぐために投げ出さない」という、主観的な決意の中にしか存在しないのです。

結びに:私たちは「人間」を選択する

暴力や排除、差別は、いつの時代も「正義」の仮面を被って現れます。

しかし、私たちが本当に守るべきは、その仮面の下にある「脆く、弱く、支えを必要とする人間そのもの」であるはずです。

先人たちが絶望の中で握りしめ、あなたに託したそのバトン。

私たちは何度でもそのバトンを握り直しましょう。その「1ミリの前進」の積み重ねだけが、いつか歴史の円環を突き破り、本当の意味での「人間らしい社会」を形作ると信じています。


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